パトリック・ステーフェン・クライファート(Patrick Steven Kluivert、1976年7月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元サッカー選手、現サッカー指導者・TV解説者。オランダ代表の前歴代最多得点者である。現役時代のポジションはフォワード。オランダ語読みに近いクライフェルトと表記されることもある。

初期の経歴

1976年7月1日、パトリック・クライファートはオランダの首都アムステルダムに生まれた。スリナムのCalcutta出身の父親はプロサッカー選手であり、母親はキュラソー島出身である。ストリートサッカーで技術を習得し、Schellingwoude というクラブに1年間通った後、7歳の時にアヤックス・アムステルダムの下部組織に入団した。この頃はディフェンダーなどのポジションでもプレーしていた。技術の高さやインテリジェンス、スピードなどが持ち味であったが、調子に波がありすぎることが欠点だった。

クラブ経歴

アヤックス

1994年8月21日、18歳の時にトップチームのルイス・ファン・ハール監督に見出され、オランダ・スーパーカップのフェイエノールト戦でデビューした。この試合でトップチーム初得点を決めると、デビューシーズンの1994-95シーズンは高い得点能力を発揮し、デニス・ベルカンプ(93年移籍)、エドガー・ダーヴィッツ、クラレンス・セードルフ、エトヴィン・ファン・デル・サールなど同じ下部組織出身の若手選手たちとともにUEFAチャンピオンズリーグで旋風を巻き起こし、ついには優勝を果たした。ウィーンで行われた決勝のACミラン戦では途中出場して85分に決勝点を決め、クラブにとって22シーズンぶりとなる欧州でのタイトルを獲得した。1995年夏にはオランダ・スーパーカップとUEFAスーパーカップというふたつのスーパーカップを制覇し、1995年冬のインターコンチネンタルカップではグレミオFBPAをPK戦の末に破って世界一の座に輝いた。1995-96シーズンにはエールディヴィジ2連覇を果たした。

ACミラン

1997年、ボスマン・ルールを行使してイタリア・セリエAのACミランに移籍した。ユヴェントスとの親善試合で鮮烈なデビュー弾を決めて見せたが、1997-98シーズンはわずか6得点に終わった。1997年、激しい自動車事故を起こし、同乗していた演出家のカートン・パットマンが死亡した。クライファートは起訴され、運転免許の剥奪と社会奉仕活動を課された。

FCバルセロナ

1998年8月28日、移籍市場が閉まる直前にスペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナと4年契約を結んだ。移籍金は875万ポンド。アヤックスで指導を受けたファン・ハール監督と再会し、1998-99シーズンのリーグ戦を制した。1999-2000シーズンにはリーグ戦3連覇を逃したものの、チーム内得点王となる15得点を挙げた。1998-99シーズンからはリバウド、ルイス・フィーゴと3トップを組むことが多く、2001-02シーズンにはリバウド、ハビエル・サビオラと3トップを組むことが多かった。トップ下としてプレーしたこともある。1998-99シーズンから2002-03シーズンまで5シーズン連続でリーグ戦15得点以上を挙げたが、2003年夏にフランク・ライカールト監督が就任して脱オランダ化を図り、パリ・サンジェルマンFCからロナウジーニョが加入したこともあって出場機会が減少した。2003-04シーズンはリーグ戦21試合の出場にとどまり、FCバルセロナ移籍後最少となる8得点に終わった。FCバルセロナでは6シーズンでリーグ戦182試合に出場して90得点を挙げた。2004年3月4日、FIFA100に選出された。

ニューカッスル・ユナイテッドFC

2004年7月21日、イングランド・プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍し、チームの象徴であるアラン・シアラーとコンビを組んだ。ニューカッスルと契約した理由として、FCバルセロナ時代にUEFAチャンピオンズリーグの試合でニューカッスルと対戦し、その際に強い感情を受けたためだとしている。FAカップでは、2005年2月20日のチェルシーFC戦 (1-0) や3月13日のトッテナム・ホットスパーFC戦 (1-0) などで重要かつ華麗な得点を決め、ともに1-0で勝利している。2004-05シーズンには公式戦通算13得点を挙げたが、リーグ戦では14位に沈み、契約延長には至らなかった。

バレンシアCF

2005年夏、スペインのバレンシアCFに移籍した。2005-06シーズンは絶えず負傷に悩まされて202分間しか出場できず、2006年7月には移籍先を探すことを許された。

PSVアイントホーフェン

2006年夏には古巣アヤックスへ復帰する噂もあったが、移籍市場終了直前の8月31日にアヤックスのライバルであるPSVアイントホーフェンと1年契約を結んだ。アヤックスの時と同じようにフェイエノールト戦 (2-1) で途中出場してデビューすると、ライバルクラブ出身のクライファートに対してスタンディングオベーションが贈られた。2006-07シーズンは前半戦だけで2度の負傷に悩まされ、出場機会を阻まれた。フィリップス・スタディオンで行われたアヤックス戦では古巣相手に得点したが、古巣に対しての愛情からゴールセレブレーションを拒否した。2007年7月、契約満了によりPSVを離れた。

LOSCリール・メトロポール

2007年7月25日、イングランドのシェフィールド・ウェンズデイFCのトライアル受験に誘われたが、これを拒否し、フランス・リーグ・アンのリールと契約を結んだ。若いチームに自身の経験を伝え、先発出場は10試合だったが4得点を挙げ、価値あるアシストを何度も決めてチームに貢献した。2008年5月、クロード・ピュエル監督に対してチームを離れる意向を示し、現役引退を発表した。

代表経歴

U-15、U-16、U-17オランダ代表に選ばれた経験がある。

UEFA EURO 1996

1995年にオランダA代表としてデビューし、UEFA EURO 1996出場メンバーにも選ばれたが、膝の負傷で満足にプレーできなかった。それでもグループリーグのイングランド戦ではデニス・ベルカンプのアシストから得点し、スコットランドを得点数の差で上回って決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝のフランス戦はPK戦の末に敗れ、大会からの敗退が決まった。

1998 FIFAワールドカップ

1998 FIFAワールドカップにも出場したが、ベルギー戦ではロレンツォ・スターレンスに挑発され、肘打ちを見舞って退場処分を受けた。準々決勝のアルゼンチン戦では改心し、先制点を挙げて準決勝進出に貢献した。準決勝のブラジル戦でも輝きを見せ、ヘディングで同点ゴールを挙げたが、PK戦で敗れた。

UEFA EURO 2000

UEFA EURO 2000にも出場し、準々決勝のユーゴスラビア戦 (6-1) ではハットトリックを達成して相手を粉砕した。準決勝のイタリア戦で、オランダ代表は90分の間に2度もペナルティキックを蹴る機会があったが、2本とも外し(1本はクライファート)、PK戦にもつれ込んだ。PK戦でもオランダ代表の選手はなかなかゴールネットを揺らせず、2年前のブラジル戦や4年前のフランス戦と同じくPK戦の末に敗れた。自身は大会通算5得点を挙げ、ユーゴスラビア代表のサボ・ミロシェビッチとともに大会得点王に輝いた。

UEFA EURO 2004

UEFA EURO 2004にもやはり、背番号9番を付けて臨んだ。しかし、頑固なディック・アドフォカート監督はクライファートに出場機会を与えず、オランダ代表のフィールドプレーヤーとして唯一、試合に出場することがなかった選手であった。UEFA EURO 2004後に就任したマルコ・ファン・バステン監督からは2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には1試合も招集されなかった。

指導者経歴

2008年4月29日、オランダメディアはクライファートがオランダサッカー協会 (KNVB) の指導者養成コースに参加する可能性があると報じた。2008年7月18日、Goal.comはクライファートがAZアルクマールのコーチングスタッフの一員となる可能性を報じ、2009年3月21日にはサッカーAMのインタビューにてAZアルクマールでフォワードを指導している事を認めた。2010年1月24日、オーストラリア・Aリーグのブリスベン・ロアーFCで2週間限定で指導を行うことを発表した。同年5月19日、現役復帰の可能性があり得ないことをジャーナリストに伝えた。2010年8月、NECナイメヘンのアシスタントコーチに就任し、チームのフォワードを指導した。2011年6月にはFCトゥウェンテのユースチームの監督に就任した。また2012年夏よりオランダ代表のコーチも兼任し2014年まで務めた。

2015年3月5日、母親の故郷であるキュラソー島代表の監督(当初の役職はテクニカル・アドバイザー)に就任した。

キュラソーはクライファートのもとでワールドカップ予選第1ラウンドと第2ラウンドを突破したが、第3ラウンドでエル・サルヴァドルに敗戦して敗退。しかし好成績を残したことでキュラソーのフットボール協会は2016年2月23日にクライファートを正式に代表監督として迎え入れると発表した。

2016年5月6日にアヤックス・アカデミーの監督に2年契約で就任。しかし仕事に入る前に2016年7月にその契約を解除してパリ・サンジェルマンFCのフットボールディレクターに就任することが発表された。

2023年6月、アダナ・デミルスポルの監督に就任した。

2025年1月8日、申台龍の後任としてインドネシア代表監督に就任。契約期間は2年で延長オプションが付帯する。また、アレックス・パストールとデニー・ランツァートのオランダ人指導者2名とインドネシア人指導者2名がアシスタントコーチとしてスタッフ入りすることも決定した。

人物

  • 最初の妻との間に3人の息子がいる。2007年9月24日、再婚相手との間に4人目となる息子が生まれた。
  • 次男のジャスティン・クライファートもプロのサッカー選手である。
  • オランダ代表のチームメイトであったルート・ファン・ニステルローイとは生年月日(1976年7月1日)と身長・体重が一緒である。

個人成績

代表歴

出場大会

  • オランダ代表
    • 1998 FIFAワールドカップ

試合数

  • 国際Aマッチ 79試合 40得点(1994年-2004年)


得点

出典

タイトル

選手

クラブ

アヤックス・アムステルダム
  • オランダ・スーパーカップ 1994, 1995
  • エールディヴィジ 1994-95, 1995-96
  • UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95
  • UEFAスーパーカップ 1995
  • インターコンチネンタルカップ 1995
FCバルセロナ
  • プリメーラ・ディビシオン 1998-99
PSVアイントホーフェン
  • エールディヴィジ 2006-07

個人

  • オランダ年間若手最優秀選手賞 1995
  • ブラヴォー賞 1995
  • UEFA EURO 2000得点王
  • FIFA100

指導者

クラブ

ヨング・トゥウェンテ
  • Beloften Eredivisie 2011–12

脚注

外部リンク

  • Patrick Kluivert.com
  • パトリック・クライファート - National-Football-Teams.com (英語)
  • パトリック・クライファート - FootballDatabase.eu (英語)
  • パトリック・クライファート - WorldFootball.net (英語)
  • パトリック・クライファート - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
  • パトリック・クライファート - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
  • パトリック・クライファート - FIFA主催大会成績 (英語)
  • パトリック・クライファート - UEFA (英語)
  • パトリック・クライファート - レキップ (フランス語)
  • パトリック・クライファート - playmakerstats.com (英語)
  • パトリック・クライファート - BDFutbol.com (英語)
  • Patrick Kluivert at PSV by Tvw

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